応天門
重要文化財。平安京大内裏にあった応天門を模して、明治28(1895)年に建てられました。左右の翼廊は昭和15年に増設されたもので、創建当時はありませんでした。
所在地 | 〒606-8341 京都市左京区岡崎西天王町 |
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アクセス方法 |
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旧武徳殿(京都市武道センター)
明治32(1899)年に完成した武徳殿は、平安京を創建した桓武天皇が大極殿の北西に武徳殿を建てた故事にちなんで、大日本武徳会がこの場所に建設したもの。今も武道の聖地と仰がれます。現在は京都市武道センターとして武道大会を始めさまざまな用途に利用されています。
he Old Martial Arts Practice Hall (Kyoto City Budo Center)
This hall was completed in 1899 and was built in this place by Great Japan Federation of Martial Arts after the historical fact that Emperor Kanmu who founded Heian-kyo built the martial arts practice hall in the northwest of the council hall in the imperial palace. It is still honored as the holy place of martial arts. At present, as Kyoto City Budo Center, it is used for various purposes including martial arts competition.
慶流橋
第四回内国勧業博覧会会場の正門の橋として、明治27(1894)年12月に竣工、翌年4月1日に開通した橋です。昭和38(1963)年に車輌通行に対応するため朱塗の鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられました。「慶流橋」の名前は『続日本紀』の記述に因むもの。擬宝珠6本の内、両端の4本には銘文が刻まれています。
Keiryu Bridge
This bridge was completed in December 1894, and was opened on April 1 the next year, as a main gate bridge of the 4th national industrial exhibition ground. In 1963, it was replaced with a vermillion-painted reinforced concrete bridge to enable the passage of vehicles.The name “Keiryu Bridge” comes from the description of “Shoku Nihongi (Chronicle of Japan Continued)”. There are six ornamental caps on this bridge, and four on the ends are engraved with the letters.
平安神宮大鳥居
昭和天皇の大礼が京都で行われたのを記念して、昭和4(1929)年に竣工しました。鉄筋コンクリート造で高さは24.4m。設計は京都府技師の阪谷良之進で、施工は大林組。当時京都帝大教授だった建築家武田五一が顧問をつとめています。京都・岡崎のランドマークとして広く知られ、愛されています。
The Torii Gate to Heian-shrine
In commemoration of a state ceremony which was held for the Showa Emperor in Kyoto, this big archway has completed in 1929. This was made of reinforced concrete and is 24. 4 meters high. Sakatani Ryonoshin, who was an engineer in the Kyoto prefectural government, designed it and Obayashi corporation undertaked it’s construction. The architect, Takeda Goichi, who was professor in former imperial university, advised it. The big archway is widely known and has been loved as the landmark in Okazaki, Kyoto.
ホームページ | http://www.heianjingu.or.jp/index.html |
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所在地 | 京都市左京区岡崎円勝寺町 |
アクセス方法 |
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仁王門通
疏水に沿って岡崎地区を横断する仁王門通りにはかつて路面電車が走っていました。この路面電車は、第四回内国勧業博覧会に合わせて、京都駅から会場へのアクセス手段として開業しました。蹴上の発電所で作られた電気を用いて運転され、日本で初めて「電車」の営業運転をおこなった京都電鉄伏見線の延長として作られました。その後、1918年に運営主体が京都市交通局に変わり、京都市電の一路線として親しまれていました。しかし、第二次世界大戦末期の1945年2月1日には不要不急路線として運行が休止され、7月1日には廃止されました。岡崎の平安神宮神苑内には開通当初の日本最初の電車が通年展示されています。
(記事:京都府立大学文学部歴史学科文化遺産デザイン研修)
架線柱跡(京都市電蹴上線)
蹴上交差点から、仁王門通りに沿ったインクラインの敷地内に、コンクリート製の台座があります。これは、路面電車に電気を供給する電線の架線を支えた架線柱の跡です。ここを走っていた路面電車は京都市電蹴上線で、1945(昭和20)年に廃止されました。そして使われていたレールや架線柱などは、同梅津線(右京区)の敷設に転用するために撤去されました。そのためこの台座のみが残され、ここに路面電車が走っていたことを示す痕跡となっています。架線柱跡は4基あり、蹴上の交差点からおおむね等間隔に並んでいます。
(記事・撮影:京都府立大学文学部歴史学科文化遺産デザイン研修)
Remains of Over-Head Wire Poles
In the site of the canal incline, running along Niomon Street from Keage intersection, you can find some concrete plinths. These are the remains of overhead-wire poles; it used to support the electric wires which supplied power for the streetcars. Here the Keage streetcar line used to run, but in 1945 (Showa 20), was taken out of service. The rails, overhead-wire poles and others, no longer used were then removed to be converted for laying the Umezu line ( in Umezu Ward). Now, only the four plinths, lined up at almost regular intervals from Keage intersection are left to show you that the streetcars used to run here.
(英文翻訳:京都府立大学欧米言語文化学科)
旧白川プール跡(白川)
琵琶湖疏水から白川が分岐する地点には、かつて、白川をせき止めて造られた児童プールが存在していました。このプールは多くの市民に愛され、遠方からも遊びに来ていた方々もいたそうです。また、地元の人によると、地域住民の手で簡易の更衣室や休憩所も設けられていたとか。プールは昭和40年後半から50年初頭頃まで続いていたもようです。現在では水をせき止めていたコンクリートの土台や、白川へと降りるはしごが残っており、かつてここにプールが存在していたことを教えてくれています。
(記事・撮影:京都府立大学文学部歴史学科文化遺産デザイン研修)
白河南殿跡の碑と説明板
白河天皇は岡崎(当時は白河と呼ばれていた)に法勝寺を1077年に建立しました。そして、新たな政治の中心地となるべき御所、白河北殿・白河南殿を造りました(この白河南殿跡の碑と説明板が、今の夷川船溜のそばにあります)。白河上皇はこの御所で新しい政治「院政」を開始しました。院政の中心地となった岡崎や鳥羽には国中から人々や財が集まり、豪奢な建築物が次々と造営されていきました。しかし、孫の鳥羽天皇の死後、皇位をめぐり後白河天皇と崇徳上皇が対立し、保元の乱が起こります。崇徳上皇の陣となった白河北殿は、後白河天皇の軍によって焼失させられました。それは豪奢を極めた院政期の衰退と、武士の時代の台頭を感じる出来事です。
(記事・撮影:京都府立大学文学部歴史学科文化遺産デザイン研修)
尊勝寺跡説明板
尊勝寺は六勝寺の中で2番目に建立された寺院です。白河天皇の第二皇子である堀河天皇の御願寺であり、1102年に造られました。堀河天皇は天皇在位中に崩御したため院政をおこなうことはありませんでした。敷地は現在のロームシアター京都や京都市武道センターがすっぽり入る広大さで、南は二条通から北は今の丸太町通まで達しました。
(記事・撮影:京都府立大学文学部歴史学科文化遺産デザイン研修)
延勝寺跡の碑と説明板
六勝寺のうち、最後に建立されたのが延勝寺です。碑と説明板は琵琶湖疏水沿いにあり、延勝寺の敷地はこのあたりから東大路のさらに西まで及んでいました。鳥羽天皇の第九皇子である近衛天皇によって1149年につくられた寺院で、延勝寺の造営を担当したのが、清盛の父である平忠盛でした。京都市勧業館みやこめっせ敷地の北西角、二条橋のたもとにも延勝寺跡の碑が建てられています。
(記事・撮影:京都府立大学文学部歴史学科文化遺産デザイン研修)
成勝寺跡の碑
成勝寺は、現在京都府立図書館やみやこめっせのあるあたりにあった寺院で、六勝寺の中で5番目に建立された寺院です。崇徳天皇によって1139年に造られました。崇徳天皇は鳥羽天皇と待賢門院の第一皇子として生まれました。父鳥羽天皇の死後、皇位継承をめぐり保元の乱が勃発した際には後白河天皇と対立し、白河北殿に陣を取って交戦しましたが敗北。崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)へ流罪となり、その地で没しました。
(記事・撮影:京都府立大学文学部歴史学科文化遺産デザイン研修)
円勝寺跡の碑
法勝寺の西側、現在の京都市美術館のあたりが円勝寺のあった場所です。平安時代末期、白河天皇が法勝寺を建立した後、天皇や上皇、女院といった人々が御願寺を次々と建立していきました。これら全ての寺院には「勝」という字がついていたため総称して「六勝寺(りくしょうじ)」とよばれました。円勝寺は六勝寺の中で4番目に建立された寺院です。待賢門院という女院によって1128年に造られました。待賢門院は本名を藤原璋子といい、鳥羽天皇の中宮で、崇徳天皇や後白河天皇の母です。3つの塔が横一列に並んでいたことがこの寺の特徴です。
(記事・撮影:京都府立大学文学部歴史学科文化遺産デザイン研修)
白河院址・法勝寺跡の碑と説明板
平安時代、岡崎の地は白河と呼ばれていました。この地に政治の中心を移した白河天皇は、法勝寺という大規模な寺院を建立しました。この建立の背景には国を仏教の力で治めるという鎮護国家思想があったと言われています。また、白河天皇は上皇となった後この地で国政を統べるようになりました(院政の開始)。このようにして、白河は国中の権力と財産が集まる政治の中心地へと変貌を遂げながら宗教の中心地にもなっていきました。敷地は広大で、現在の京都市動物園は法勝寺の南半分足らずにすぎず、二条通、冷泉通を超えてさらに北へと広がる大寺院でした。
(記事・撮影:京都府立大学文学部歴史学科文化遺産デザイン研修)
蹴上インクラインドラム工場
琵琶湖疏水、蹴上インクラインのドラム工場。
通常非公開。特別公開時のみ見学可。
開館時間 | 通常非公開。特別公開時のみ見学可 |
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休館日 | 通常非公開。特別公開時のみ見学可 |
その他 注意事項など |
通常非公開。特別公開時のみ見学可 |
「全国水平社創立の地」
大正11(1922)年3月、京都市岡崎旧公会堂に差別からの解放を求める約3千人が全国から集まり、全国水平社創立大会が開催されました。大会では、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」とする日本初の人権宣言とも称される全国水平社創立宣言が確認されました。
この石碑は、創立大会の開催地を示しており、水平社創立60周年を記念し、昭和57(1982)年に京都市が建立したものです
所在地 | 京都市左京区岡崎最勝寺町13 ロームシアター京都 敷地内(京都市美術館別館前) |
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